インディーズ期藤原基央

藤原基央 vol.1 – 上京の時の話-

インディーズ期

BUMP OF CHICKENのボーカル・ギターを担う藤原基央さん。ほとんどの曲を作詞作曲するバンドには欠かせない中心的存在です。今では紅白歌合戦に出場するなど日本の音楽シーンを代表するバンドとなったBUMP OF CHICKENですが、彼らにも私たちと同じような時間を過ごした若い頃がありました。藤原基央さんが、地元佐倉を出てからのエピソードを紹介します。




知り合いの家を転々とする日々

藤原さんは、16歳の夏休み後に日出学園高等学校を中退しました。その後、地元でアルバイトをしながら家に家賃を収める生活をしていましたが、「実家に家賃を収めるくらいなら東京に出よう」と思い、16、17歳頃から東京の知人の家を転々とするようになりました(まだ家を借りていたわけではなく、時折実家に帰っていたそうです)。しかし千葉にしか友人がいなかったため、東京で一人暮らししていたお姉さんの家や、高校時代の先輩の家、先輩の彼女の弟の家などを転々としていました(本人曰く”わけわからないところにも世話になった”)。泊めてくれる人が見つからない時は新宿中央公園で寝泊まりしていたそうです。

 

路上弾き語りでお金を稼いでいた!?

この頃は日雇いの露天商のアルバイトなどををしていましたが、給与が支払われずに全財産が小銭しかない時などはギター1本持って歩いて、新宿アルタ前で弾き語りをしていました。どちらかというと歌を披露するためというよりも、お金を稼ぐために。逆さまにした帽子に最高で1万~2万円が入ったこともあったそうです。この路上弾き語りの経験はMerry ChirsmastのPVで垣間見ることができます。弾く前にギターケースに小銭を入れていますのがわかりますか?これは空っぽのケースだと通行人はお金を入れづらいので、”さくら”として自分で撒いているのです。さすが藤原さん、慣れてます。(1:08頃をチェックしてください)


吉野家がご馳走レベルで、中央公園の浮浪者のおじさんにゆで卵を恵んでもらうくらい際どい生活を送っていました。10代でのこの経験は今でも自分の中に強く残っているといいます。

 

直井さんとの同居、そしてバンドは東京で活動

17歳、18歳の頃には完全に東京へ生活拠点を移し、週に1回の火曜日にベースの直井さんの家にバンドの練習をするために帰っていました。ちなみにこの練習のために帰る電車の中で作った歌が「くだらない唄」です。

 

最初に1人で住んだ家は初台にあり、19歳頃に調理師学校(辻調理師専門学校?)を卒業した直井さんと同居するようになります。同居する直井さんと同じカフェで働いていたのもこの時期です。直井さんとの同居生活では、Final Fantasy8を一緒にやったり、直井さんが作曲した曲に歌詞をつけたり(後のベストピクチャー)しています。この頃はすでに1st Album「FLAME VEIN」をリリースしていました。

千葉中心だったライブ活動も下北沢や渋谷などが中心になり、一気にインディーズシーンを駆け上がっていき、あっという間にメジャーデビュをしました。藤原さんの書く詞には”お腹が空く”や”生きる”といった言葉が多く出てきますが、これは藤原さんの刺激の多い10代の経験が嘘のない言葉で表れているのだと思います。




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