ハンマーソングと痛みの塔:基本情報作詞作曲:藤原基央
作曲時期:2006年8-10月
録音時期:2007年3月13日
録音場所:一口坂スタジオ
リリース:2007年12月19日 「orbital period」M-07
ライブ初披露:2008年1月10日 ホームシック衛星 at ZEPP TOKYO
「ハンマーソングと痛みの塔」はBUMP OF CHICKEN 5枚目のアルバム『orbital period』に収録されているアルバム曲です。
裏打ちのリズムと軽快なベースラインが特徴的なダンサブルな曲です。
今回はこのハンマーソングと痛みの塔について解説します。
Contents
「ハンマーソングと痛みの塔」制作過程
ユグドラシル期 | メロディとコード進行のアイデアをもつ |
2006年春〜夏 | 藤原、曲が書けない状態が続く |
8月8日 | 藤原、コンビニに行こうと自宅を出た時に恐怖さえ覚えるほどの赤い夕焼けを見て「真っ赤な空を見ただろうか」を書く |
9月20日 | 1st オリジナル無声映像作品『人形劇ギルド』リリース |
藤原、「ハンマーソングと痛みの塔」作曲。藤原がメンバーを呼びかけ直井、升が藤原宅に集まり、その場で熱唱する(翌日マンションの掲示板に騒音苦情の張り紙が出される・・・)。 | |
秋〜冬 | 藤原、「才悩人応援歌」を書く |
11月22日 | 12th Maxi Single『涙のふるさと』リリース |
年末 | 藤原、「飴玉の唄」を書く |
2007年3月 | 「ハンマーソングと痛みの塔」「才悩人応援歌」「飴玉の唄」のレコーディング at 一口坂スタジオ |
メジャーセブンスコードの繊細な響き
ジャーンって聴こえてきそうですな🎸 pic.twitter.com/NXYvfxBI0N
— CHAMA (@boc_chama) 2018年5月26日
「ハンマーソングと痛みの塔」ではBUMP OF CHICKENの楽曲でほぼ使われたことのないコードがメインに使われています。
藤原 – 今まで使ったことのないコードを使ってますし、メジャーセブンとかね。
出典:MUSICA 2008.01
メジャーセブンスというのは、簡単に言えばお洒落な響きのコードです。この曲では「DM7」が使われています。
藤原のコードの嗜好構成する音が少ないパワーコードよりも、和音の多いローコードを好む。その一方で「捻りのあるコードが好きじゃなかった」という理由でメジャーセブンスやディミニッシュなどのテンションコードは使用が少ない。
この曲に関しては使用しています。また藤原さん得意のABパターン(Aメロとサビのみ)で構成されている楽曲です。
ユグドラシル期からあった断片的なアイデア
「ハンマーソングと痛みの塔」のコード進行とメロディは2003〜2004年のユグドラシル制作の頃から断片的なアイデアとしてありました。
藤原 – 歌詞はなかったですけどメロディとコード進行の弾き方っていうのは『ユグドラシル』ぐらいの時からあって、やりてえなとか思っていたんじゃないかな、多分。
excite music 「INTERVIEW with BUMP OF CHICKEN」2007
藤原 – この曲の雛形は頭の中では、確か『ユグドラシル』くらいからあったんですよね。
MUSICA 2008.01
藤原さんの中では「詞」と「音(メロディ・コード)」の両方が揃って初めて「曲を書いた」と呼ぶようにしています。
そのため歌詞単体、メロディ単体のアイデアが1つの曲になるには長い時間がかかることがあります。
夢の飼い主 (2004年) ・・・ ユグドラシルの頃 (2003年 – 2004年)のアイデア
カルマ (2005年) ・・・ユグドラシルの頃 (2003-2004年)のアイデア
花の名 (2007年) の一部歌詞・・・スノースマイルの頃 (2002年9月 – 12月) から携帯に保存
ハンマーソングと痛みの塔 (2007年) ・・ユグドラシルの頃(2003-2004年)のアイデア
自宅で大声で歌いながら書いた「ハンマーソングと痛みの塔」
人形劇ギルドの打ち合わせや涙のふるさとのPV撮影の時期に、藤原さんは自宅で大声で歌いながら書き上げました。
藤原 – “ハンマーソングと痛みの塔”は結構シャウトしてたから、普通に。そういう意味では珍しい作り方だったかもしれない
MUSICA 2008.01
「ハンマーソングと痛みの塔」以外にも大声で歌いながら書いた曲があります。「ダイヤモンド」や「embrace」もそのような方法で書いてきました。
・embrace (2003年)
・プラネタリウム (2005年)/span>
・ハンマーソングと痛みの塔 (2008年)
関連記事:楽曲解説:embrace vol.1 温もりについて書いた曲 歌詞解釈と意味
“デタラメ英語”で曲をつくる
藤原 – この曲はほとんど叫んでるだけというか感じで作ってて、最初はデタラメ英語で歌ってたような感じでしたから、すぐに I don’t careとかI was bornとかの英語が羅列されるという宇宙語で(笑)
出典:MUSICA 2008.01
藤原、作曲後にメンバーを自宅に呼ぶ
作曲後、嬉々とした藤原さんはメンバー全員を自宅に招集します(!)升さんと直井さんは藤原宅へ到着しましたが、増川さんは圏外で繋がりませんでした(本人曰く、スタジオで練習していたそう)。
直井 – 藤君がギター1本持って、この詞の手書きの紙を一枚俺らの前に置いて。で、俺は何故か正座で(笑)。もうふたり(升と直井)の高鳴りは最高潮になった時にライヴスタートで。
MUSICA. 2008.01
自宅ライブはすごく盛り上がり、升さんと直井さんはモノを叩いて参戦します。升さん直井さんも寡作期と理解していたので、嬉しかったのでしょうね。
翌日マンションに騒音苦情が張り出される・・・
嬉々として披露した藤原さんでしたが、翌日肝を冷やす光景を目にします。自宅マンションのロビーにある掲示板に騒音に関する注意書きが張り出されていました。
藤原 – (苦情が共用掲示板に)バーンと貼り紙してあって。瞬時に申し訳なく思ったんですけど、同時に『ギターの演奏音と歌声』ってリアルな書き方がすごい恥ずかしくて(笑)
MUSICA 2008.01
夜遅くまで直井さん升さんに披露してたんですね。
その時増川は・・・電波の届かないスタジオに入っていた・・・というが増川が一人でスタジオに入っていることなどあるのだろうか。嫁さんといたのではないか。
アルバム制作の始まりを感じた1曲
2006年春-秋はバンプはメディア露出がない期間でした。当時の藤原さんの作曲方法は自宅に籠って一人で何度も推敲して書く方法のため、1曲を書き上げるのに長期的な期間を費やしており、それに加えて本人も認めるほどの「書けない時期」だったのです。
初めて夏フェスにも出演せず、シングル『涙のふるさと』と『人形劇ギルド』の制作をして過ごす中で「ハンマーソングと痛みの塔」が生まれます。ベーシストの直井由文さんはこの曲がアルバム制作を感じはじめた1曲だったと複数のインタビューで述べています。
直井 – (中略) 「ハンマーソングと痛みの塔」ができたときに、“あ、これがアルバムとしての第1曲なんだろうな”という感覚はもちろんありました。
Barks <orbital period インタビュー> 2007.12.17
直井 – きっとこれがアルバムに入るんだろうなっていう、アルバムの中で生きる曲なんだろうなっていうのを感じて、ここから始まるんだなぁっていう気分を“ハンマーソングと痛みの塔”で味わって。
excite music 「INTERVIEW with BUMP OF CHICKEN」2007
個人的な思い出として、2005 – 2007年の3年間はひたすらPONTSUKA!!を聴くしかない時期でした。「カルマ / supernova」(2005年) →「涙のふるさと」(2006年) →「花の名」&「メーデー」(2007年)まで1年に1枚ペースだったので、orbital periodの17曲という曲数を見たときはすごく嬉しかったですね。
升さん直井さんの目の前で披露した勢いのまま、翌日にはプリプロ制作をすることになります。
さて今回はハンマーソングと痛みの塔の作曲編を紹介しました!続きはレコーディング・ライブ編でご紹介します!
関連記事:ハンマーソングと痛みの塔 vol.2 – レコーディング編・ドラム録りに苦労した升-